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昨年と同様の贈賞レセプションです。
ぜひ足をお運びください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
大滝徹が代表を務めます国際NGO団体「国連開発計画NPO法人日本DEVNET協会」では、2010年度DEVNET賞贈賞式を下記要領にて開催する運びとなりました。
つきましては日頃、国際協力、途上国支援、環境エネルギー対策、女性の起業など、社会的活動分野でご活躍中の皆様方にぜひともご出席賜りたく、お繰り合わせの上、ご出席くださいますようご案内申し上げます。参加費は無料です。
NPO法人日本DEVNET協会
代表理事 大滝 徹
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年度DEVNET賞はセイコーエプソン株式会社に
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
DEVNET賞選考委員会(委員長:濱田泰三早稲田大学名誉教授)では、2010年度DEVNET賞を、セイコーエプソン株式会社に贈賞することに決定しました。DEVNET賞は、発展途上国の環境保全、産業・技術支援、社会・文化支援、人材開発、情報交流、女性の社会的活動・起業支援などの分野で継続的な活動の成果を挙げた個人、団体、組織を表彰するものであり、今年で6回目の贈賞となります。
【DEVNET賞贈賞式 要領】
◆開催日時:2010年10月25日(月)
◆受付 14:00
◆会場:日本外国人特派員協会記者クラブ
http://www.fccj.or.jp/
東京都千代田区有楽町1?7?1 有楽町電気ビル北館20F
JR「有楽町駅」日比谷口 徒歩3分/東京メトロ「有楽町駅」「日比谷駅」A3出口
電話:03-3211-3161
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.674399632397&lon=139.76140695748&z=17&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.674399632397&hlon=139.76140695748&layout=&ei=utf-8&p=
◆式次第
1.開会の挨拶
2.DEVNETフォーラム
受賞者の活動報告(記録映像上映)
3.贈賞式
*贈賞式終了後同会場にて懇親会を開催いたします。
終了時間 16:00(予定)
◆参加お申し込みは
お名前 :
ふりがな:
会社【団体】名:
ご連絡先の電話番号:
メールアドレス:
を明記の上メールにて
info@devnet.or.jp
あてにお送りいただくか、このメールに直接返信下さい。
以上
株式会社ナイアガラ Niagara Limited
otaki@niagara.co.jp
=========================
〒107-0061
港区北青山2-9-12
第5イノセビル5F
Phone 03-3470-3323 Fax 03-3470-3320
ぜひ足をお運びください。
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大滝徹が代表を務めます国際NGO団体「国連開発計画NPO法人日本DEVNET協会」では、2010年度DEVNET賞贈賞式を下記要領にて開催する運びとなりました。
つきましては日頃、国際協力、途上国支援、環境エネルギー対策、女性の起業など、社会的活動分野でご活躍中の皆様方にぜひともご出席賜りたく、お繰り合わせの上、ご出席くださいますようご案内申し上げます。参加費は無料です。
NPO法人日本DEVNET協会
代表理事 大滝 徹
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2010年度DEVNET賞はセイコーエプソン株式会社に
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DEVNET賞選考委員会(委員長:濱田泰三早稲田大学名誉教授)では、2010年度DEVNET賞を、セイコーエプソン株式会社に贈賞することに決定しました。DEVNET賞は、発展途上国の環境保全、産業・技術支援、社会・文化支援、人材開発、情報交流、女性の社会的活動・起業支援などの分野で継続的な活動の成果を挙げた個人、団体、組織を表彰するものであり、今年で6回目の贈賞となります。
【DEVNET賞贈賞式 要領】
◆開催日時:2010年10月25日(月)
◆受付 14:00
◆会場:日本外国人特派員協会記者クラブ
http://www.fccj.or.jp/
東京都千代田区有楽町1?7?1 有楽町電気ビル北館20F
JR「有楽町駅」日比谷口 徒歩3分/東京メトロ「有楽町駅」「日比谷駅」A3出口
電話:03-3211-3161
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.674399632397&lon=139.76140695748&z=17&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.674399632397&hlon=139.76140695748&layout=&ei=utf-8&p=
◆式次第
1.開会の挨拶
2.DEVNETフォーラム
受賞者の活動報告(記録映像上映)
3.贈賞式
*贈賞式終了後同会場にて懇親会を開催いたします。
終了時間 16:00(予定)
◆参加お申し込みは
お名前 :
ふりがな:
会社【団体】名:
ご連絡先の電話番号:
メールアドレス:
を明記の上メールにて
info@devnet.or.jp
あてにお送りいただくか、このメールに直接返信下さい。
以上
株式会社ナイアガラ Niagara Limited
otaki@niagara.co.jp
=========================
〒107-0061
港区北青山2-9-12
第5イノセビル5F
Phone 03-3470-3323 Fax 03-3470-3320
投稿者 otaki 08:00 |
昨年に引き続き、憲政記念会館にてシンポジュームを開催する。
タイトルは
「愛される国、日本へ。」
この、どうにかしてしまった日本をどうにかしなければならない。
以下、提言の主旨。
それにしても、日本の政治はどうなるのか?
内閣府では、「世界経済の潮流2010」と題する報告書を公表しました。そのなかで2010年の世界経済について、各国の財政や金融政策の効果によって、緩やかに回復に向かい、徐々に成長率を高めていくとの見通しを示しています。
いっぽうで、「2010年国際競争力ランキング(スイスの民間調査機関・IMD(経営開発国際研究所)調査)によると、政権交代以来の混迷がつづく日本経済は17位から27位に転落するなど、はっきりしない空模様がつづいています。
外交面でも、米国内でパートナーとしての日本について懐疑的な論調が目立ち始めるなど、どうも、昨今の失政が影響しているようでなりません。ガラパゴスと揶揄されるモバイル技術。TOYOTAバッシングからチャイナマネーの日本買いなど、日本ブランドのパワーが落ち込むシーンも、最近多く見られるようになりました。
日本の対外広報の失態を叱咤する論調が広まっています。上海万博でにぎわう隣国中国の日本軽視風潮はますます広がっているようです。いま、日本は、世界からどのように見られているのでしょうか?
1980年代、「高品質で低価格」を売り物にした日本のエレクトロニクス産業は世界を圧倒しました。DRAM(メモリ)に代表される半導体部品は、世界市場を制覇しました。しかし、21世紀に入って、そのエレクトロ産業の覇者の地位は韓国、中国、台湾といった隣国の後塵を拝する様となりました。
あの「ミシュランガイド」は東京を世界最高の'美食都市'と絶賛しています。MANGAは世界中に翻訳され、いまだ多くの若者達の心をとらえて放しません。Gross National Coolのトップランナーとしての「地球上で一番クールな国 (the coolest nation on earth)日本」は、未だ健在です。そんななか、コンテンツ産業を次代の基幹産業にとの勇ましいかけ声は、もう10年も以前からありますが、政府の施策はいまだに不発に終わっています。
もはや、かつての経済大国日本の幻影は払拭すべきです。経済よりも、「文化の質」を誇れるような国のあり方を目指すべきです。他国に対し経済の大きさを誇るのでなく、奢りを捨て、誠意を持って対応し、失墜した日本ブランドの信頼を回復しなければなりません。いまこそ、世界の国々から信頼される、「愛される国、日本」を目指すべきです。「世界の平和と繁栄に貢献する国家」としての新しい日本のアイディンティティを確立すべきです。より多くの国に、地域に、人々に理解され、愛される国となるよう、行動を始めるべきです。
タイトルは
「愛される国、日本へ。」
この、どうにかしてしまった日本をどうにかしなければならない。
以下、提言の主旨。
それにしても、日本の政治はどうなるのか?
内閣府では、「世界経済の潮流2010」と題する報告書を公表しました。そのなかで2010年の世界経済について、各国の財政や金融政策の効果によって、緩やかに回復に向かい、徐々に成長率を高めていくとの見通しを示しています。
いっぽうで、「2010年国際競争力ランキング(スイスの民間調査機関・IMD(経営開発国際研究所)調査)によると、政権交代以来の混迷がつづく日本経済は17位から27位に転落するなど、はっきりしない空模様がつづいています。
外交面でも、米国内でパートナーとしての日本について懐疑的な論調が目立ち始めるなど、どうも、昨今の失政が影響しているようでなりません。ガラパゴスと揶揄されるモバイル技術。TOYOTAバッシングからチャイナマネーの日本買いなど、日本ブランドのパワーが落ち込むシーンも、最近多く見られるようになりました。
日本の対外広報の失態を叱咤する論調が広まっています。上海万博でにぎわう隣国中国の日本軽視風潮はますます広がっているようです。いま、日本は、世界からどのように見られているのでしょうか?
1980年代、「高品質で低価格」を売り物にした日本のエレクトロニクス産業は世界を圧倒しました。DRAM(メモリ)に代表される半導体部品は、世界市場を制覇しました。しかし、21世紀に入って、そのエレクトロ産業の覇者の地位は韓国、中国、台湾といった隣国の後塵を拝する様となりました。
あの「ミシュランガイド」は東京を世界最高の'美食都市'と絶賛しています。MANGAは世界中に翻訳され、いまだ多くの若者達の心をとらえて放しません。Gross National Coolのトップランナーとしての「地球上で一番クールな国 (the coolest nation on earth)日本」は、未だ健在です。そんななか、コンテンツ産業を次代の基幹産業にとの勇ましいかけ声は、もう10年も以前からありますが、政府の施策はいまだに不発に終わっています。
もはや、かつての経済大国日本の幻影は払拭すべきです。経済よりも、「文化の質」を誇れるような国のあり方を目指すべきです。他国に対し経済の大きさを誇るのでなく、奢りを捨て、誠意を持って対応し、失墜した日本ブランドの信頼を回復しなければなりません。いまこそ、世界の国々から信頼される、「愛される国、日本」を目指すべきです。「世界の平和と繁栄に貢献する国家」としての新しい日本のアイディンティティを確立すべきです。より多くの国に、地域に、人々に理解され、愛される国となるよう、行動を始めるべきです。
投稿者 otaki 16:46 |
波野哲明。中村勘三郎の本名である。
「俺が二十代の頃、毎週のように通ったバーがあるのね。渋谷にあったドンキホーテという店なんだけど、関雅好というカッコイイマスターがいてね、芸術家や芸能人やスポーツ選手が群れを成して押し寄せて、毎晩そこで顔を合わせていたんだよ。時には激論を戦わすこともあったよね。五年前に閉店しちゃったけど、今、ああいう店がないのは残念だね。」
小松成美『勘三郎、荒ぶる』(原題『さらば勘九郎 十八代目中村勘三郎襲名』を追補 幻冬社より刊行)
小松成美からとどいた年賀状のことを思い出して本屋で手に取った文庫本の中に、そんな勘三郎の独白のくだりがあった。
そのお店をどのように表記したのだろうか? 「飩喜胞亭?」ドンキホーテの当て字だ。
渋谷の仁丹ビルの裏、古い雑居ビルの一角にその『会員制』倶楽部があった。オーナーの関さんの嗜好があちらこちらにちりばめていた。会員制倶楽部とはよく言ったもので、まさに関さんのメガネにかかった客しか其処には入れない。
70年安保の少し前くらいだったか?その店に僕を連れて行ってくれたのは「青山ロブロイ」の遠藤櫻子さん。あの、安部直哉(譲二)さんの奥さんだったひとだ。ロブロイのバーテンをやっていた吉村君がこのドンキホーテのバーテンをやっていたという縁だった。カウンターに4~5席。テーブル席が3つほどの小さな飲み屋で。大体僕らは夜の12時を過ぎた頃に顔を出すのが常だった。
行くたびに顔を合わせるのは杉浦直樹さん。杉浦さんが連れてきた若いミュージカル役者が、今の市村正親くんで、劇団四季に入ったばかりだった。彼には、自身が出演している舞台のチケットをもらって、僕はこのとき初めてミュージカルなるものを見た。
ドンキホーテの常連の役者さん歌手には枚挙に暇がない。大御所では森繁久弥さん。勘三郎君の恋人だった太地喜和子さんは、酔えば酔うほどいい女になっていくタイプだった。同じような女優で宮下順子も常連だった。宮下とは、僕が学生時代にピンク映画製作会社(鬼プロ)勤務していたころ、撮影で知り合っている。
内田裕也さんはトイレの窓を割った。竜虎関は、生まれて間もない僕の長男を抱いてくれた。(この頃僕たち夫婦は未だ3ヶ月にもならない乳飲み子の長男を店にたびたび連れて行っていた。)六本木の「竜の落とし子」から流れてきたのは常連の和田あき子さん一行。橋之助の恋人だった京都の芸鼓の名前をボトルに発見して、大声で泣いたのは、銀座で有名なホステス。
「俺が二十代の頃、毎週のように通ったバーがあるのね。渋谷にあったドンキホーテという店なんだけど、関雅好というカッコイイマスターがいてね、芸術家や芸能人やスポーツ選手が群れを成して押し寄せて、毎晩そこで顔を合わせていたんだよ。時には激論を戦わすこともあったよね。五年前に閉店しちゃったけど、今、ああいう店がないのは残念だね。」
小松成美『勘三郎、荒ぶる』(原題『さらば勘九郎 十八代目中村勘三郎襲名』を追補 幻冬社より刊行)
小松成美からとどいた年賀状のことを思い出して本屋で手に取った文庫本の中に、そんな勘三郎の独白のくだりがあった。
そのお店をどのように表記したのだろうか? 「飩喜胞亭?」ドンキホーテの当て字だ。
渋谷の仁丹ビルの裏、古い雑居ビルの一角にその『会員制』倶楽部があった。オーナーの関さんの嗜好があちらこちらにちりばめていた。会員制倶楽部とはよく言ったもので、まさに関さんのメガネにかかった客しか其処には入れない。
70年安保の少し前くらいだったか?その店に僕を連れて行ってくれたのは「青山ロブロイ」の遠藤櫻子さん。あの、安部直哉(譲二)さんの奥さんだったひとだ。ロブロイのバーテンをやっていた吉村君がこのドンキホーテのバーテンをやっていたという縁だった。カウンターに4~5席。テーブル席が3つほどの小さな飲み屋で。大体僕らは夜の12時を過ぎた頃に顔を出すのが常だった。
行くたびに顔を合わせるのは杉浦直樹さん。杉浦さんが連れてきた若いミュージカル役者が、今の市村正親くんで、劇団四季に入ったばかりだった。彼には、自身が出演している舞台のチケットをもらって、僕はこのとき初めてミュージカルなるものを見た。
ドンキホーテの常連の役者さん歌手には枚挙に暇がない。大御所では森繁久弥さん。勘三郎君の恋人だった太地喜和子さんは、酔えば酔うほどいい女になっていくタイプだった。同じような女優で宮下順子も常連だった。宮下とは、僕が学生時代にピンク映画製作会社(鬼プロ)勤務していたころ、撮影で知り合っている。
内田裕也さんはトイレの窓を割った。竜虎関は、生まれて間もない僕の長男を抱いてくれた。(この頃僕たち夫婦は未だ3ヶ月にもならない乳飲み子の長男を店にたびたび連れて行っていた。)六本木の「竜の落とし子」から流れてきたのは常連の和田あき子さん一行。橋之助の恋人だった京都の芸鼓の名前をボトルに発見して、大声で泣いたのは、銀座で有名なホステス。
「黄昏」はヘンリーフォンダだったなぁ。キャサリンヘップバーンだったか?相手役は。
昔の映画を思い出していた。
さて 正月明け、かなり多忙になってきて、続編をエントリーする時間が無くなってしまった。反省。
赤坂ミカドのホステスだったHITOMIとの話の続編だが、ごくプライベートのことで、ボクにとってとても大切な、ボクだけの思い出なので、これ以上の成り行きをエントリーするのが気が引けてきた。
ある日終電をのがしたことがきっかけで、HITOMIとふたりタクシーで帰ることになり、その後、お決まりのラブゲーム。ボクは年上の女性とつきあうのが初めてだったが、彼女は年齢差をまるで感じさせない、甘えんぼの、イノセントな女性だった。
まもなく大学一年生となったボクは、新学期早々から彼女のアパートに毎晩のようにお泊まりすることになる。
そして、その当時流行したフォークソングの歌詞のような二人の暮らしが始まり、やがて、大学生とキャバレーホステスの、といったティピカルなストリーがあって、どちらからともなくその距離は離れていった。
大学の同級生達は多くの男子がロングヘアーになり、ぴちぴちの細いジーンズをはき、授業なんかそっちのけでキャンパスライフをエンジョイしていた。大学紛争の嵐が吹き荒れるほんの半年ほど前だった。
ぼくは、ひょんなことから、詰め襟の学生服を着る大学生となり、髪も短髪にし、いっぱしの右翼を気取るようになっていた。
やがて、当然のように、ぼくはその大学紛争に巻き込まれることになる。彼らとは対極にある体制の回し者、右翼団体の委員長として。。。。
昭和42年。この年は長梅雨で、その短い夏は終わろうとしていた。
赤坂ミカドのホステスだったHITOMIとの話の続編だが、ごくプライベートのことで、ボクにとってとても大切な、ボクだけの思い出なので、これ以上の成り行きをエントリーするのが気が引けてきた。
ある日終電をのがしたことがきっかけで、HITOMIとふたりタクシーで帰ることになり、その後、お決まりのラブゲーム。ボクは年上の女性とつきあうのが初めてだったが、彼女は年齢差をまるで感じさせない、甘えんぼの、イノセントな女性だった。
まもなく大学一年生となったボクは、新学期早々から彼女のアパートに毎晩のようにお泊まりすることになる。
そして、その当時流行したフォークソングの歌詞のような二人の暮らしが始まり、やがて、大学生とキャバレーホステスの、といったティピカルなストリーがあって、どちらからともなくその距離は離れていった。
大学の同級生達は多くの男子がロングヘアーになり、ぴちぴちの細いジーンズをはき、授業なんかそっちのけでキャンパスライフをエンジョイしていた。大学紛争の嵐が吹き荒れるほんの半年ほど前だった。
ぼくは、ひょんなことから、詰め襟の学生服を着る大学生となり、髪も短髪にし、いっぱしの右翼を気取るようになっていた。
やがて、当然のように、ぼくはその大学紛争に巻き込まれることになる。彼らとは対極にある体制の回し者、右翼団体の委員長として。。。。
昭和42年。この年は長梅雨で、その短い夏は終わろうとしていた。
赤坂ミカドの夜は更けて
ひょんなことで年金調査から発見された「赤坂ミカド」の記録から昔のことを思い出している。
昭和42年春。グループサウンズがブームになっていた時代だ。
グループサウンズは3~4年前のエレキブームが引き金になっている。もちろん、ビートルズもその一部。だ。
赤坂の夜は、このころあったムゲン・ビブロスといったGOGOクラブの影響でか、かつての大人の町から若者の町へと変革しようとしていたさなかだった。
変わりきれなかったのは、このミカドの付近にいくつもあった黒塀の料亭と民放の雄TBS、そして「リキパレス」に代表されるるマンションの住人たちのせいだ。
若者のエネルギーをもってしても抗し切れないコンサーバティブ、保守性がこの町にあった。
TBSの向かい側のアマンドは深夜まで営業する喫茶店で、芸能プロのマネージャーたちの打ち合わせ場所としてにぎわっていた。
TBS会館の地下にあるTOPSは芸能人に会えるというので、ミーハーな追っかけたちがたむろしていた。
いまでこそ「チョコレートケーキ」で名高いが、干しぶどうをライスの上に散らしたカレーが人気メニュー。
「赤坂サカス」と言う名に変わった今も、TOPSは日本料理のざくろとともにこの地で営業している。
乃木坂通りにあった喫茶店はジュン。国際ビルはまだ無く、タクシー会社国際観光のモータープールと、自動車教習所だった。
そして、その先には思い出深い日大付属第三中学高校。ナイトクラブ、コパカバーナもこの近くだった。駐車場が便利だったので、ここにはよく出向いた。
後年(昭和48年)。赤坂ミカドのすぐ隣で父が小さな飲み屋を始めたのでこのあたりには思いでも多いが、これは昭和42年の話である。
高校3年生で本来ならば受験勉強をしなければ、という時期だったが、勉強嫌いの僕はむしろこの夜のアルバイトに一生懸命だった。
というのも、このときに知り合った大人の女性HIROMIのせいだ。
大人と言っても、僕よりも6つ上で23歳。
女子高校生が遊び相手だった僕に、HIROMIはまぶしすぎるほど輝いている大人の女性だった。
僕は、それまで店の中でHIROMIと会話を交わしたことは一度も無かった。
ホステスさんとボーイはまったく隔離されたような店のシステムがあって、営業時間中は私語を交わすことなど皆無だった。
声をかけたのは僕のほうだった。
正月が明け、成人式も終わり、赤坂の夜はすっかりいつものペースを取り戻していた1月の終わりころ。
終電にはまだ間があるが、何かで急いで帰宅しなければならない用事があり、地下鉄赤坂見附駅で丸の内線に飛び乗った僕は、目の前に突然現れた(本当にそんな感じで振り向いたらそこに、HITOMIの黒々とした瞳があったというわけだ。)HITOMIに、軽く会釈をした。
ひょんなことで年金調査から発見された「赤坂ミカド」の記録から昔のことを思い出している。
昭和42年春。グループサウンズがブームになっていた時代だ。
グループサウンズは3~4年前のエレキブームが引き金になっている。もちろん、ビートルズもその一部。だ。
赤坂の夜は、このころあったムゲン・ビブロスといったGOGOクラブの影響でか、かつての大人の町から若者の町へと変革しようとしていたさなかだった。
変わりきれなかったのは、このミカドの付近にいくつもあった黒塀の料亭と民放の雄TBS、そして「リキパレス」に代表されるるマンションの住人たちのせいだ。
若者のエネルギーをもってしても抗し切れないコンサーバティブ、保守性がこの町にあった。
TBSの向かい側のアマンドは深夜まで営業する喫茶店で、芸能プロのマネージャーたちの打ち合わせ場所としてにぎわっていた。
TBS会館の地下にあるTOPSは芸能人に会えるというので、ミーハーな追っかけたちがたむろしていた。
いまでこそ「チョコレートケーキ」で名高いが、干しぶどうをライスの上に散らしたカレーが人気メニュー。
「赤坂サカス」と言う名に変わった今も、TOPSは日本料理のざくろとともにこの地で営業している。
乃木坂通りにあった喫茶店はジュン。国際ビルはまだ無く、タクシー会社国際観光のモータープールと、自動車教習所だった。
そして、その先には思い出深い日大付属第三中学高校。ナイトクラブ、コパカバーナもこの近くだった。駐車場が便利だったので、ここにはよく出向いた。
後年(昭和48年)。赤坂ミカドのすぐ隣で父が小さな飲み屋を始めたのでこのあたりには思いでも多いが、これは昭和42年の話である。
高校3年生で本来ならば受験勉強をしなければ、という時期だったが、勉強嫌いの僕はむしろこの夜のアルバイトに一生懸命だった。
というのも、このときに知り合った大人の女性HIROMIのせいだ。
大人と言っても、僕よりも6つ上で23歳。
女子高校生が遊び相手だった僕に、HIROMIはまぶしすぎるほど輝いている大人の女性だった。
僕は、それまで店の中でHIROMIと会話を交わしたことは一度も無かった。
ホステスさんとボーイはまったく隔離されたような店のシステムがあって、営業時間中は私語を交わすことなど皆無だった。
声をかけたのは僕のほうだった。
正月が明け、成人式も終わり、赤坂の夜はすっかりいつものペースを取り戻していた1月の終わりころ。
終電にはまだ間があるが、何かで急いで帰宅しなければならない用事があり、地下鉄赤坂見附駅で丸の内線に飛び乗った僕は、目の前に突然現れた(本当にそんな感じで振り向いたらそこに、HITOMIの黒々とした瞳があったというわけだ。)HITOMIに、軽く会釈をした。
赤坂ミカドの続編です。
ボクの記憶では確か、あれは坂上二郎さんだったと思う(間違ってたらホントにゴメンナサイ)。同じボーイの仲間で少し年がいった太り気味の。。。歌手希望なので、ステージがあるこのキャバレーでバイトしながらきっかけを探しているのだと。コント55号としてTVに登場してくるのはおよそ4~5年後だった。
ミカドは夕方4時半が出勤時間。タイムレコーダーを押すと、みんなすぐ隣にあった銭湯へ三々五々向かう。銭湯でのボーイ仲間達のうわさ話に相づちを打ちながら、自分の波長とフィットしない違和感をボクは感じていた。ナンバーワンのみどりさんは俳優の誰々のメカケだ。とか。ナンバーワンの座を狙っている誰は、美少年喰いだから気をつけろとか。競馬の話や東映映画、日活映画の話。などなど。
ぼんやりとした記憶だが、ミカドは8時までの入場はセット料金とやら言うもので1,950円だったか?この料金で、ホステスとビールとピーナツ品川巻きが付いてくる。(当時はボトルキープなどと言うしくみは無い)。
客はたいていが二人連れなので、ビール瓶2本と4個のグラス、つまみ一皿、灰皿、伝票。のワンセットを丸いトレーに載せて運ぶ。テーブルに置くときは片膝を付いて低い姿勢で。ボーイは目立ってはいけない、そこではホステスさんとお客さんが主役なのだから。
二人程度の客なら良いが、5人6人連れの客ともなると、ビール瓶とグラスを載せるだけで盆はいっぱい。そんなときはボーイが二人、三人でのコンビネーションプレーが要求される。一番年若いボクは、そんなときにかり出される補助要員であったことが多い。
やがて、ビール運びの仕事にも慣れてくると、追加オーダーを受ける役も多く回ってくる。たいがいはホステスさんがテーブルに置かれたランプのスイッチをオンオフしてボーイを呼ぶことになるのだが、コールのない時はグリーンのランプ。スイッチをオンすると赤いランプとなる。赤いランプが付くと近くにいたボーイが駆けつける仕組みだ。そのころ、フロアにボーイは50人ほどだっただろうか?もちろん、ボクが最年少だった。
キャバレーのシステムになれてきたボクは、この追加オーダーのコールをキャッチするのがきわめて上手くなっていた。というのも、追加オーダーを受けて注文の品をテーブルに持って行くときが一番「チップ」のチャンスだから。
ホステスさんは
「あら、大滝君、ありがとう。これチップね。」と、あらかじめ用意してあった紙幣を小さく折りたたんで手渡してくれる。
ボクの記憶では確か、あれは坂上二郎さんだったと思う(間違ってたらホントにゴメンナサイ)。同じボーイの仲間で少し年がいった太り気味の。。。歌手希望なので、ステージがあるこのキャバレーでバイトしながらきっかけを探しているのだと。コント55号としてTVに登場してくるのはおよそ4~5年後だった。
ミカドは夕方4時半が出勤時間。タイムレコーダーを押すと、みんなすぐ隣にあった銭湯へ三々五々向かう。銭湯でのボーイ仲間達のうわさ話に相づちを打ちながら、自分の波長とフィットしない違和感をボクは感じていた。ナンバーワンのみどりさんは俳優の誰々のメカケだ。とか。ナンバーワンの座を狙っている誰は、美少年喰いだから気をつけろとか。競馬の話や東映映画、日活映画の話。などなど。
ぼんやりとした記憶だが、ミカドは8時までの入場はセット料金とやら言うもので1,950円だったか?この料金で、ホステスとビールとピーナツ品川巻きが付いてくる。(当時はボトルキープなどと言うしくみは無い)。
客はたいていが二人連れなので、ビール瓶2本と4個のグラス、つまみ一皿、灰皿、伝票。のワンセットを丸いトレーに載せて運ぶ。テーブルに置くときは片膝を付いて低い姿勢で。ボーイは目立ってはいけない、そこではホステスさんとお客さんが主役なのだから。
二人程度の客なら良いが、5人6人連れの客ともなると、ビール瓶とグラスを載せるだけで盆はいっぱい。そんなときはボーイが二人、三人でのコンビネーションプレーが要求される。一番年若いボクは、そんなときにかり出される補助要員であったことが多い。
やがて、ビール運びの仕事にも慣れてくると、追加オーダーを受ける役も多く回ってくる。たいがいはホステスさんがテーブルに置かれたランプのスイッチをオンオフしてボーイを呼ぶことになるのだが、コールのない時はグリーンのランプ。スイッチをオンすると赤いランプとなる。赤いランプが付くと近くにいたボーイが駆けつける仕組みだ。そのころ、フロアにボーイは50人ほどだっただろうか?もちろん、ボクが最年少だった。
キャバレーのシステムになれてきたボクは、この追加オーダーのコールをキャッチするのがきわめて上手くなっていた。というのも、追加オーダーを受けて注文の品をテーブルに持って行くときが一番「チップ」のチャンスだから。
ホステスさんは
「あら、大滝君、ありがとう。これチップね。」と、あらかじめ用意してあった紙幣を小さく折りたたんで手渡してくれる。
久しぶりのエントリー。もう年が変わって、2010年です。
何故エントリーの気になったかというと、「年金」がきっかけなわけです。
別のところでたてているブログでは回顧話などが多いのだけれど、今回は「年金」がきっかけで、ずいぶんと昔のことを思い出してしまいました。
「近畿観光株式会社 他1社(大阪府)-2008年(平成20)年8月22日倒産。負債36億1000万円。」という経済欄にも載らないちいさな記事をみつけた。実はこの会社、僕が初めて勤務した会社である。もうすっかり忘れていた、遙かむかしの話。それを思い出させてくれたのが昨年限りで閉鎖された「社会保険庁」の相談窓口でのやりとりだった。
「大滝さんの年金記載に漏れはないようですが、、、。あ、ひとつ、昭和42年に、社員として働いていたというようなことはありませんか?」
「えー? アルバイトならいっぱいやってましたが?」
「いえアルバイトでなく。。。どこか、ホテルとか・・。」
「三宅島の旅館で2ヶ月くらい住み込みのバイとしてましたが、それは確か43年の夏ですから、、、ホテルニュージャパンはそのころ結構利用してましたが。。。勤務はしていないし。。。」
「ヒントはですねぇ、観光関連の会社で、大阪にある。。。」
僕はますます解らなくなってしまった。
「江戸川区の大滝徹さんが昭和42年の4月から働いていたと記録があるのですが?」
「42年の4月?? あぁ! もしかすると。。。僕はその頃ミカドというキャバレーで働いていましたが、もしかすると。」
「それそれ、それですね。年金の支払いが記録されています。」
昭和42年、1967年。僕は赤坂のキャバレー「ミカド」で正社員として働いていた。その4月以前はまだ高校生だったので、バイト学生扱いのため社員としては登録されていず、4月からのほんのわずかな期間だけが、その「近畿観光」の社員名簿に記載されていたのだ。高校卒業の新卒社員社員というわけだ。懐かしいあのころの様々な事象が、旧いスライドムービーを見るように思い出されてきた。
<つづく>
何故エントリーの気になったかというと、「年金」がきっかけなわけです。
別のところでたてているブログでは回顧話などが多いのだけれど、今回は「年金」がきっかけで、ずいぶんと昔のことを思い出してしまいました。
「近畿観光株式会社 他1社(大阪府)-2008年(平成20)年8月22日倒産。負債36億1000万円。」という経済欄にも載らないちいさな記事をみつけた。実はこの会社、僕が初めて勤務した会社である。もうすっかり忘れていた、遙かむかしの話。それを思い出させてくれたのが昨年限りで閉鎖された「社会保険庁」の相談窓口でのやりとりだった。
「大滝さんの年金記載に漏れはないようですが、、、。あ、ひとつ、昭和42年に、社員として働いていたというようなことはありませんか?」
「えー? アルバイトならいっぱいやってましたが?」
「いえアルバイトでなく。。。どこか、ホテルとか・・。」
「三宅島の旅館で2ヶ月くらい住み込みのバイとしてましたが、それは確か43年の夏ですから、、、ホテルニュージャパンはそのころ結構利用してましたが。。。勤務はしていないし。。。」
「ヒントはですねぇ、観光関連の会社で、大阪にある。。。」
僕はますます解らなくなってしまった。
「江戸川区の大滝徹さんが昭和42年の4月から働いていたと記録があるのですが?」
「42年の4月?? あぁ! もしかすると。。。僕はその頃ミカドというキャバレーで働いていましたが、もしかすると。」
「それそれ、それですね。年金の支払いが記録されています。」
昭和42年、1967年。僕は赤坂のキャバレー「ミカド」で正社員として働いていた。その4月以前はまだ高校生だったので、バイト学生扱いのため社員としては登録されていず、4月からのほんのわずかな期間だけが、その「近畿観光」の社員名簿に記載されていたのだ。高校卒業の新卒社員社員というわけだ。懐かしいあのころの様々な事象が、旧いスライドムービーを見るように思い出されてきた。
<つづく>
あしたへつづく日本へ。
ーーーー2009年DEVNET賞贈賞に向けてーーー
「病める地球の健全化に向けて」と、片方善治前会長が昨年のDEVNET賞贈賞の際に贈られたメッセージが、いま、強く心に残っています。
昨年来の世界同時不況は、100年に一度の大不況といわれ、世界中の経済が連鎖するように崩落しました。それから一年。アメリカで、日本で、新しい政治が始まりました。新しい国連の姿も見えてきました。世界は、先進国の舵取りを不安と希望の入り混じった眼差しで見つめています。政治に、経済に、そして、社会に、地球環境に。いま私たちはこれまでと異なる、変革の萌芽を見ています。
DEVNETは、1985年にUNDPが提唱した「発展途上国間の交易・技術移転を通して、経済振興を図る」活動に端を発しています。日本DEVNET協会の出発は2003年の6月、ローマ本部の意向を受けて、日本にその機関をつくったことから始まります。今日まで、6年の歳月を経て活動を続けて参りました。
たった6年あまりですが、様々な変化がありました。中でも、多くの人が感じていることが「将来への茫漠とした不安感」です。不安は南北を問いません。先進国の平均的な人たちが感じている経済不安、食への不安、明日のエネルギーへの不安。途上国の人たちに大きなダメージをもたらした地震、津波など天候の異変。そして相も変わらぬ飢餓への不安、病気への不安。その病める地球問題こそ、21世紀の課題です。毎日毎日、百人以上のヒトが自殺をするこの国は、どこかで、歯車が食い違ってしまったようです。
本年のシンポジュウムでも提言がありましたが、「あしたへつづく」地球のために、いまこそ人間の叡智が必要です。その叡智は経済発展のためだけのものでないはずです。強きものが、より力を蓄えるための知恵であってはなりません。ヒトの叡智が、いまこそ社会のため、環境のため、弱きもの達のために働くべきです。
本年のDEVNET賞贈賞はリコーグループに決定いたしました。リコーは国連が提唱する「グローバルコンパクト」に日本の企業としていち早く賛意を表明するなど、途上国への暖かな視線を長く続けてこられた企業です。病める地球を救うために、いち企業がここまで尽力されていることを、多くの人たちに知ってもらいたく思います。また、私たちの同朋である日本の多くの企業人たちの範となってもらいたいと思います。
あしたへつづく日本のために、ささやかですが、本会の活動がその一助となることを願ってやみません。どうか、今後もDEVNET協会にさらなるご支援を賜りますよう、お願いいたします。
ーーーー2009年DEVNET賞贈賞に向けてーーー
「病める地球の健全化に向けて」と、片方善治前会長が昨年のDEVNET賞贈賞の際に贈られたメッセージが、いま、強く心に残っています。
昨年来の世界同時不況は、100年に一度の大不況といわれ、世界中の経済が連鎖するように崩落しました。それから一年。アメリカで、日本で、新しい政治が始まりました。新しい国連の姿も見えてきました。世界は、先進国の舵取りを不安と希望の入り混じった眼差しで見つめています。政治に、経済に、そして、社会に、地球環境に。いま私たちはこれまでと異なる、変革の萌芽を見ています。
DEVNETは、1985年にUNDPが提唱した「発展途上国間の交易・技術移転を通して、経済振興を図る」活動に端を発しています。日本DEVNET協会の出発は2003年の6月、ローマ本部の意向を受けて、日本にその機関をつくったことから始まります。今日まで、6年の歳月を経て活動を続けて参りました。
たった6年あまりですが、様々な変化がありました。中でも、多くの人が感じていることが「将来への茫漠とした不安感」です。不安は南北を問いません。先進国の平均的な人たちが感じている経済不安、食への不安、明日のエネルギーへの不安。途上国の人たちに大きなダメージをもたらした地震、津波など天候の異変。そして相も変わらぬ飢餓への不安、病気への不安。その病める地球問題こそ、21世紀の課題です。毎日毎日、百人以上のヒトが自殺をするこの国は、どこかで、歯車が食い違ってしまったようです。
本年のシンポジュウムでも提言がありましたが、「あしたへつづく」地球のために、いまこそ人間の叡智が必要です。その叡智は経済発展のためだけのものでないはずです。強きものが、より力を蓄えるための知恵であってはなりません。ヒトの叡智が、いまこそ社会のため、環境のため、弱きもの達のために働くべきです。
本年のDEVNET賞贈賞はリコーグループに決定いたしました。リコーは国連が提唱する「グローバルコンパクト」に日本の企業としていち早く賛意を表明するなど、途上国への暖かな視線を長く続けてこられた企業です。病める地球を救うために、いち企業がここまで尽力されていることを、多くの人たちに知ってもらいたく思います。また、私たちの同朋である日本の多くの企業人たちの範となってもらいたいと思います。
あしたへつづく日本のために、ささやかですが、本会の活動がその一助となることを願ってやみません。どうか、今後もDEVNET協会にさらなるご支援を賜りますよう、お願いいたします。
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